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2006年06月14日

Alwys昭和レトロと逢える街

   富士山・人・赤いトタン屋根の下吉田

         第2回 下吉田まちめぐり     「まち」がミュージアム!2007

                          
                萱沼英雄氏編著「ふるさとの思い出 写真集」提供   
               
        金鳥居         刑部旅館             富士吉田駅

 富士吉田市は昭和26年、下吉田村・明見村・新屋村・上吉田村・松山村が合併し富士吉田市となった。
江戸時代上吉田村は 北口本宮冨士浅間神社 を中心に栄え、富士山信仰者が富士登山をする際
精進潔斎を指導し宿を提供したのが 御師(おし) と呼ばれる宿坊だ。吉田口登山道の繁栄は
富士宮口・精進口・船津口・須走口・御殿場口を纏めても、その人数に足りなかったと云われ
宿坊の数は100軒を数えた。
 下吉田村・明見村・松山村は半農半機で田んぼを耕し、桑を育てて繭を採り”甲斐絹織り”と呼ばれる
羽織裏の産地として江戸の旦那衆や奥方衆に珍重された。戦後は洋服の裏地・洋傘地の生産では
全国需要の98%を織り、その名を知らしめている。
 その昔から、関東地方と深い交流を持ち、高い文化と信仰心で栄えた御師の住む町上吉田と
下吉田の機業を中心に商業経済で発展してきた町が富士吉田市である。

     月江寺駅             月江寺駅からの眺め      元旅館”松風荘”        


 月江寺公園                  穴守稲荷神社    月江寺商店街   

 S30年頃の月江寺公園    宮 川      元・寿旅館       S30年頃 ミス富士パレード 

        昭和36年・雪代による被害
        

 富士吉田市の歴史を紐解く時に忘れていけないのが”雪代”だ。春、富士山に積もった雪に
気温が昇り大量に雨が降ると、融けた雪が砂礫を含み富士の急峻な勾配を一気に流れる現象で
近年では昭和36年の災害を最後に、砂防工事、植林をした結果だろう被害を受けていない。
 その昔は、田畑を家を流される雪代との戦いで、浅間神社の”諏訪の森”は災害から町を守る為
松を植林したもので、上吉田の町は松林に守られる様、今の場所に移住したのだ。町の東西に2本
南北に伸びる空堀、間堀川・宮川は雪代避けの排水路なのだ。

    下吉田・しんや地区


 
                                   絹屋町今昔
     

 絹屋町は京浜はもとより京阪神地方からも市の立つ日は問屋が集まり、その為の取引の場として
一般家庭から医師宅までがも使われ活況を呈した。当時の交通手段は自転車が主流で、反物を
乗せた自転車が行きかい駐輪し、人が通り抜けるのも困難したと伝えられている。

  福地八幡社・仲町

 渡辺大明神と呼び親しまれ、祭神に渡辺綱命がいる為か市内渡辺姓を持つ方々の
守護神として崇敬されている。

  下吉田・本町通り




  
                             西町地区

 市内の中心に大正・昭和初期の建物が現存しているのは第2次世界大戦中、市民会館の
富士山方向に中島飛行機分工場”武蔵航空”があり爆撃され、吉田高校も被害を受けたが
下吉田地区は戦火に合わなかった為残っている。

  小室浅間神社

大正時代の宮川・下浅間
    溶岩流末       昭和25年9月19日 御更衣祭 

 祭神”木花開耶姫命”  流鏑馬 の馬蹄で占う神事、筒粥神事、境内の桂の木、60年に
一度行う御更衣の儀式がある(上・写真)。 また、神社の裏手には溶岩の流末の様子を観る事が出来る。
この場所に小室浅間神社を置いたのは富士山の安泰・鎮火を願う古人の願いの表れだろう。

  福源寺・地図          鐘楼                太子堂           本堂




    勝十郎氏は母方の先祖だ。
     鶴  塚                          吉田歌舞伎恩人碑
    聖徳山 福源寺
浄土真宗本願寺派の寺で、太子堂には聖徳太子画像が収められており、親鸞・蓮如・実如上人の
御文章3通が寺宝とされている。

*鶴塚の由来
  始皇帝が蓬莱の国日本へ、徐福を遣わして不老不死の薬を探させたが、徐福はその途中で
  不死山(富士山)にて他界してしまった。そして3羽の鶴となって舞いあがったが
  うち一羽が死んでここ福源寺に落ちて、それを葬った塚が鶴塚と伝えられています。
  鶴に化した徐福は、富士山麓の村民を守ったので、土民達は後を慕い、地名を都留郡
  (つるごおり)と名付けたのだそうです。
*碑文概要
  峽州に鶴郡あり。その地、南は富岳の麓に接す。相伝う、孝霊帝の時、秦の徐福、結伴して
  薬を東海の神山に求む。ここに至るにおよび、おもえらく福壌なりと。遂に留まり手去らず。
  後に鶴三羽ありて居る。つねに遊びて郡中に止まる。時人以て徐福の等の化すところとなす。
  孝霊より元禄に至る凡そ二千有余年にして一鶴死す。その骨を郡の福源寺に埋めそめ鶴塚と称す。
                   http://suzuki-t.hp.infoseek.co.jp/jofuku.htmから引用 

   下吉田駅

 ガチャ万時代の到来は昭和24年頃だ。戦後の統制がはずれ自由経済になり、全国的に戦災で
焼かれ衣料品も無い時代、糸を運べば金になり、織機を回し、織れば織るほど金になり、製品を
持っていけば倍にもなった時代。女工さんを忍野・河口湖方面から雇い、家で糸を染色し、朝
暗いうちから織り出し夜11時頃迄織機の音を止める事無く働いた。家内機業だから日中農作業が
ある時はお母さんと女工さんに織機を任せ、田んぼや畑の耕作をした。少年だった頃、夏のある日
住んでいた松山から弁天町迄歩くうち、窓を開けた工場から聞こえて来る織機の音が、大きくなったり
小さくなったり、絶える事無く続いた事を思い出した。


          明治の県知事・藤村式建築

  月江寺

  月江寺  当水上山月江禅寺、一昔前は情報の発信基地であり、市民の憩いの場所だった。
近くに”スーパー・中込”があり、市内唯一の公園で動物園(サルだけだったと思うが)
池には有料の遊具船があり、また運動場になっている広場ではプロレスの興行が行われ、力道山
・木村・ジャイアント馬場なども仮設マットで戦った。広場の端にはステージがあり、ミス富士の
コンテスト会場でもあった。梵鐘の下は月江寺の池があり、清冽な水が欅の大木近くから湧き出し
手漕ぎボートが浮かび市民の憩いの場所であったが、現在は車社会になり近くの月江寺駅に降り立つ
人の姿は激減し、過っての賑わいはない。

 右端のブリキの壁に青いペンキを塗られた建物は元下吉田村の役場だ。
叔父の話によると、戦争中「ウサギを供出(戦時体制下などで、法律により食糧・物資などを政府が
民間に半強制的に・・・..)せよ!」との回覧板が回って来て、大事に飼っていたウサギを役場に
持っていったら、係りが「ご苦労さん!」と言ってウサギを受け取り、受け取って背中を向け、手が
動いた刹那の時間にウサギは横棒に吊るされ悲しい思いをしながら帰ったと話してくれた。戦時下で
何の楽しみも無い時代、農作業に出掛ける時には小屋から出して、母に作ってもらった脇から下げる
バッグにウサギの顔だけ出し、連れ歩いたそうだが・・・・少年にとっては一番の戦争の悲しい
思い出となった。

    晩酌通り

 絹屋町の西100メートルに位置する場所が通称”西裏通り”だ。大小の料理屋、飲み屋が軒を連ね
芸姑衆が行き交い、多い時は600人を超える女性がいたという。市が立ち機屋が休みの時は、近在の
女工さん達も出掛けて来るので西裏通りは人で溢れ、肩が触れ合う程の人手だったそうだ。人口5万人の
町に映画館が5軒あり、昭和30年当時人口密度から云うと日本一だったかも知れない飲み屋の数。
 富士吉田市が一番繁栄した時代だった。



    新世界通り

 機屋のお父さんが輝いた時代。飲み屋へ行けばサラリーマンよりモテた時代だ。テーブルの前に
座り、グラスを持っただけで飲み屋のお姉さんの目が輝いた。指を見れば仕事が判った。染色に使う
染料のせいで手の指紋やシワが黒く染まっていたからだ、機屋さんイコール働き者で小金持ち
だったのだ。
 銀行も倉庫を持っていて糸や織機を預ければドンドン金を貸してくれた。大きく仕事をしている
社長さん達は角田料亭へ行った。1人200円の料理を出したそうだ。小料理屋で1円出せば1本の
お酒と5品の料理が出る時代に、何と200円である。今で云えば銀座・赤坂辺りの超高級クラブで
ピンドンと云ったところだろうか。また、当時は停電がたまにあり、料亭の玄関で帰りがけに暗く
なり自分の靴を探すのに1万円札を燃やして探したという不心得者までいた。天罰が下ったのか
判らぬが、隆盛を誇ったその家は今は無い。
 また、大戦当時には、召集令状(赤札・赤ガミ)を役場の係りが持って来ると、好むと好まざるに
関わらず、国民の義務として戦地へ赴かなければならなかった。その際、出征兵士を送る壮行会場
としても使われ、青年がそれまで生きて来た人生の中で、食べた事が無い程のご馳走を振舞われ
それを食べ、皆に送られ戦地に向かったと聞いた。

  元料亭”角田”

 昭和8年頃、日本中が不況の真っ只中、東京から宮大工を招へいし創らせたもので、奥には
200畳の宴会場があった。戦後宴会場だった建物は取壊され「富士国際」と云う洋物専用映画館になったが
15年程前に、こちらも解体され我が市4軒あった映画館は1軒も無くなってしまった。コレも時代の
趨勢なのだろうか・・・。子供の頃、映画少年で日曜日には映画館を回って見歩き、アイデンテイテイーを
確立したかも知れない想い出の地が無くなってしまったのは、何とも寂しい限りだ。


   ミリオン通り
  


  西裏通り




  ハーモニカ長屋             月江寺通り

 街も人間も一緒だと思うのだが、華やかな時があれば有るほど、その盛りを過ぎた時の
落差を感じるのを禁じえない。なぜこうなったかを論じる事は止めよう、現実が結論として
目の前にあるからだ。市民が安全に豊かに暮らしていくにはどうしたら良いかだけを
考えれば良い。市役所へ行き総合窓口の前にある柱に掲げられた人口・世帯数表の
前年度月対比人口数が、いよいよマイナスへ転じた今、市民全員が危機感を持ち
出来るだけ早く手を打たねば市内全体が、西裏と同じ様に夕方になっても灯の灯らない
町になり、若者は吉田を捨てて都会に出てしまい、老人だけが寂しく暮らす活気の
無い町になってしまう。

 過っては富士講と云うシステムを創り上げ、文化の極地にまで到達させた上吉田。
努力と勤勉と斬新な考え方で”郡内織り”を富士吉田ブランドとして確立させ繁栄を
極めた下吉田。こう云った先人の血が流れる我々に出来ないはずは無い。
 今回、撮った写真に説明文を加える為に、図書館へ行き富士吉田市史などを
閲覧し郷土の歴史に目を落とした時、疑問が湧いた。隣町である河口湖の隆盛を羨み
「吉田はダメだ!ダメだ!」と子供達の前で嘆いていないだろうか?子供を育てる
大人が富士吉田市民としての誇りを失い、いや!その前に持っているだろうか?
昭和26年に市制が始まり、30年には船津村の村長・議長が富士吉田市に単独
合併の申し入れをして来たのだ。市ではあっさり断ったそうだが、その時しておけば・・・
と云う後悔が残るが、過去には今と180度違う、そんな出来事が事実としてあったのだ。
 買い手がある内が花、売り時を間違えると見向きもしてくれず、挙句の果ては
嫌われ者になってしまう。市が誕生し56年を経過したが、世の中はドラマチックに
変化するものだ。 来年は選挙の年だ。 狭い町だけに地縁・血縁・その他のしがらみで
取り囲まれ、中々個人の意思を出し難い状況だろうが、今からの市を考える時1票は益々
大事になって来る、心して選挙に挑んで欲しいものだ。

 明治以前に掘ったトンネルとしては全国一長い手掘りトンネル” 新倉掘抜 ”。途中
150年のブランクが空いたが、計20年の年月と1万2000両、延べ人数10万7000人の
労力と費用を掛けて堀抜き、河口湖の増水害を解決させ、新倉村の不毛の大地に水を引き
耕作出来る田畑にした祖先を持つ住民だ。富士吉田市に住んでいる事に誇りを持ち
これからの難局へ立ち向かおうではないか、また、そうする事が今を生きる者の先人に
対する礼儀だし、これからを生きて行く子供達への価値ある贈り物となろう。 

  第2回 下吉田まちめぐり        「まち」がミュージアム!2007

                             
                              参考資料「富士吉田市史」 

投稿者 pinetree : 2006年06月14日 19:53