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2007年09月18日

第2回 下吉田まちめぐり

     富士山・人・赤いトタン屋根の下吉田

         Alwys 昭和レトロな下吉田まちめぐり     「まち」がミュージアム!2007
    
 9月16日”第2回 富士と昭和を楽しむ 下吉田まちめぐり”が開催された。
昭和レトロが、あちこちに残る下吉田の街を富士山に見立て、一合目から頂上まで3776歩で、まちを歩こう!という企画だ。富士吉田市商工会議所が主催し、企画はまちづくり研究会・ワーキング委員会が行い、山梨県・富士吉田市・(財)ふじよしだ観光サービス・富士急行(株)等、協力のもとに行われた。 約90名の参加者があり7班に分け、行動した。

 朝9時、中村会館前で行われたスタッフの打ち合わせでは、民家の上に富士山が顔を覗かせた。

            まち歩き スタート地点
              *下吉田駅


 「レトロな駅舎は、終戦直後、当時東洋一と謳(うた)われた名古屋駅を模して建設されました。
地場産業の織物業が最盛期には、貨車が日本中から入線しており、駅前ロータリーや構内にも当時の賑わいをしのぶことができます。」

 午前10時、スタート地点の下吉田駅前には1928年製のイギリス車オースチンや、なつかしのミゼットが展示され、駅の待合室には富士急行線で使われていた制服・道具が並び、レトロな蓄音機からは、昭和の歌謡曲が流れた。
また、駅前では新町獅子舞保存会による獅子が舞い、賑やかにお客様を送り出した。

            まち歩き 一合目
              *小室浅間神社


 「下吉田の村氏神で、近世には下宮浅間明神と称し、現在でも下宮さんと呼ばれています。
祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。下吉田の集落が東町にあった頃は、東町の金毘羅神社の地にあったといわれています。近世中期以前は、上吉田・松山・下吉田の3村の産土神でありましたが、後に村ごとに村氏神が成立し、下吉田だけの村氏神となりました(甲斐国志)。
 「オメシカエ」神体を包んでいる白布を60年に1度替えるもので「御更衣祭」といいます。。前回は昭和25年に行われた(次回は平成22年)。
 「やぶさめ祭り」毎年9月19日に行われる祭りです。古くからこの地区では、農業を守護する神が春の種まきの時に山から里へ降りて、秋の収穫を見届けてから山に還ると言い伝えられています。(神事)られています。やぶさめは神のいなくなる冬の間の平穏無事を祈願するためのお祭りです。
射手が放った矢の命中度ではなく、走った馬のひづめの跡で一年を占います。祭りに用いる神馬が3頭、境内にあるうまやで静かに時を育んでいます。
 「富士山溶岩原形」・本殿裏に残る溶岩流の岩は、昔は富士北麓でも、各所で見られましたが、開発等で徐々に消え、現在では唯一原形を残している貴重なものです。」
    
                   ■御由緒■
 「昔は上吉田・下吉田・松山の三地区(旧瑞穂村・現在の富士吉田市)総鎮守として、旧鎌倉街道沿いに位置し富士山参詣前の禊所としても賑わい、下宮浅間・下浅間(富士山北口最初之宮)とは富士山二合目の浅間神社(山宮)に対する里宮であり、筒粥神事占いの道者(富士山参詣人数)の占いに其の証明がなされ、山の神、田の神、氏神との重層信仰の神牡である。
由緒は、征夷大将軍坂上田村麿が東征の折りこの地より富士山を拝し祈願し大勝、その功業神護なるを謝し大同二年(1467)に社殿を創祀したと伝えられています。」
 
                                  下吉田駅から777歩
 
                 まち歩き 二合目
              *旧下吉田町役場(旧ことばの教室)

         

                 ● 建造物の経歴 ●
 「本建造物は、瑞穂村役場として建設されました。木造2階建、寄棟屋根の建築であります。下吉田第一小学校の南西に位置するみずほ公園に隣接し、周囲の道路より、一段高い敷地の上に建っております。
竣工年、設計者、施行者は不明でありますが、国勢調査時の写真から、大正14年(1925)には、すでに建てられていたと考えられています。
また、宮川電燈発電所の明治45年(1912)写真を見ますと、屋根の形状、窓枠や玄関庇の意匠などが、かなり本建造物に似通っており、明治末期には、すでに当地方に存在した建物形状であることがわかります。
従って、本建造物の竣工年についても、明治末から大正期、と考えるのが妥当であります。
 昭和14年8月1日の下吉田町町制施行にあたり、瑞穂村役場より、下吉田村役場になりました。
昭和26年3月、市制施行により富士吉田市が誕生。市役所が他所に開設されるまで、町役場として使用されていました。
昭和27年に下吉田小学校が二校に分かれ、下吉田第一小学校の西校舎として旧吉田高等学校の校舎を移設。それに隣接する本建造物の、また小学校校舎として利用されるようになりました。

 最近の本建物は、昭和31年9月30日から同46年まで、富士吉田市立図書館として利用され、46年3月20日に市立図書館が開館すると、図書館としての役割は終了しました。
昭和48年からは山梨県下で6番目の「ことばの教室」として開設され、南都留地区二市二町七村一組合の言語障害児教育をおこなう施設として使用されました。
 すなわち、村役場→町役場→小学校舎→図書館→ことばの教室として利用された経緯をたどり多くの人々に愛され、活用されてきました。」

                                 下吉田駅から1,080歩

               まち歩き 三合目
               *月江寺・月江寺の池


 「当寺の開基は「雲遍上人」という方で、貞永三年(西暦1234年、鎌倉時代)に焼失していた摂州四天王寺別院「山の寺吉田寺」の跡に、富士山別当弥光院(天台宗派)を再建いたしました。現在も北口本宮富士浅間神社参道に仁王門の礎石が残っています。
この弥光院もその後廃絶してしまいましたが、応永二年(西暦1395年、室町時代)になって、塩山向獄寺八世絶学祖能禅師が、弥光院を再興し、改めて「月江庵」と称し開山いたしました。
その後しばらくして無住寺院であった「月江庵」を秋元越中守の招請により、禅心聖悦禅師が
妙心寺派の禅寺として中興し、現在に至っております。
月江寺の池は、広さ2,800㎡。透明な湧水を満々とたたえ、昭和30年代はボートを楽しむ住民でにぎわいました。

 溶岩のりゅうまつ、まるびの際の場所に湧き水が出てできた池の代表的なものである。月江寺の山号はこの池の水上にあるから水上山といわれている。月江寺は山梨県を代表する寺院であります。
月江寺の池は、水が豊富に湧き出ていて 近隣の水源地でありました。庭園は、無窓国師の作と伝えられていますが、定かではありません。
溶岩流を巧みに取入れた自然豊な回遊式庭園で、四季折々の風情をたのしむことができます。
また、霊雲閣、龍吟閣、虎嘯峰、八水江、振錫橋、四間堆、鳴琴泉、指月境の名称が残されており、「月江寺庭園の八景」と言われております。
「日本庭園名鑑」にも載っている名園です。」

                                 下吉田駅から1,562歩

            まち歩き 四合目
             *旧角田医院


 「この建物は大正末期から昭和初期に建てられました。現在の当主角田亀春氏の亡き祖父の角田亀次氏が宮内庁の宮大工に依頼し建設。木造2階建て床面積は約100坪、11部屋。屋根の下を支える垂れ木は扇のように広がっていることから「扇垂れ木」といわれ、技術の高さがうかがえます。
 織物業の町として戦前繊維工業が栄えた時代、絹屋町周辺で織物の「市」が盛んに開かれました。月江寺通り西裏通り界隈は、市の後の織物問屋や仲買人の接待のための繁華街としてで夜の繁華街として一世を風靡しました。
その当時、この建物は料亭「角田」として県下でも1・2番を競った料亭と今も語り継がれています。料亭としては昭和19年終戦を迎える前年に廃業しました。
 その後、現当主の亡き父角田清治氏が戦後部屋の一部を医院として活用し、昭和61年まで使用していました。
なお、角田医院の隣には昔「富士国際」という映画館がありました。
 月江寺通りを流れる宮川のたもとにあり、趣のある大きな家です。門には「角田内科医院」と大きく書かれた木の看板がかけられており、看板の文字は過ぎた時の長さを表しているかのように墨の色が薄れ、まさに昭和初期に賑わっていた下吉田のシンボル的建物です。」

                                 下吉田駅から1,874歩

            まち歩き 五合目
             *子の神神社(子の神通り)


 「この神社は、古くは宮守(森)明神といっていました。慶応4年「甲斐の国社記寺記」によると、古くは宮川の水源は、この社の境内から発していたので、宮守神社と称されていたといわれております。
 明治16年「雑社存置願」には信徒25人、総代吉田都留太・吉田伝七・吉田都留とあります。生産を司る大地の神様を祭った神社が「子の神」で、宮川流れ出す池のほとりにありました。現在では、本町三丁目の自治体で祀っています。昔はここに池があり、そこから細い水が流れ出していました。それが 宮川だといわれています。
堀には水が流れていなくて、川には水が流れている。常にちょろちょろと水が流れていたから、宮川といわれていました。今では河口湖から水が引かれて川と呼べる状態でありますが、昔は雨が降った後くらいしか沢山の水が流れなかったといわれています。」

                                 下吉田駅から2,182歩

            まち歩き 六合目
             *まつや茶房




 「昭和27~28年に建物の表側を改築37~40年頃に。裏側を改築しました。部屋数は4部屋ですが壁が少なく、仕切りがほとんど無いので、部屋という認識を持ちづらいかもしれません。店の前後に2階がありますが、真ん中は1階建ての平屋のため、家の中に二つの階段があります。
一つはお客様用なので見えますが、もう一つはお店の倉庫なので隠されています。
昭和37年頃から40年まで2階で針灸治療院を営んでいました。
 まつや履物店は、平成5年頃まで営業していました。現在は、喫茶店・雑貨屋・駄菓子屋・インターネットカフェを兼ねたお店です。インターネットを利用するるのは、ユースホステルの外国のお客様が主で、客層は全体的にのんびり出来る方が多いです。昭和の残す店内で味わえるのは、米国家庭料理と地元作家等の作品の数々。
そしてなにより人の温もり。着物を着て来店すれば年間を通して全品1割引。」

                                 下吉田駅から2,377歩

            まち歩き 七合目
             *月の江書店

      ♪♪ 刑部たけみ氏作詞・下吉田第二小学校校歌

 「昭和24年に亡き先代・刑部たけみ氏が建設。先代刑部たけみ氏は文学的才能があり、現在の第一小学校、第二小学校の校歌、富士吉田市連合婦人会の歌を作詞した。山梨県史の文芸の部で「月の江会」の中心的役割をしていました。
雑誌「都留公論」を自主出版していました。今は、コミック、プラモデルを中心に新刊本を販売。子供から大人なで客層は幅広いです。
 まるで看板や店舗の雰囲気は、まるで昭和にタイムスリップしたかのように感じる店舗の中では、新刊も販売。今と昔の融合化がおもしろい。映画「ピーナッツ」にも登場した店で~す。
 新世界通りは映画のロケ地として、最近は「力道山」の撮影場所として活用されるなど「昭和」の雰囲気を残す代表的な路地裏です。
ガチャ万時代の繁華街のあとがいまも鮮明に残されています。」

                                  下吉田駅から2,807歩

            まち歩き 八合目
          *富士吉田ユースホステル

 「昭和11年に建てられたもので、現在も当時のまま残されている和風ユースホステル。
ヨーロッパ・カナダなどから来る外国人旅行者が多い。玄関右手にどんと構える急な階段は、階段落ちのイメージから「新撰組の階段」といわれています。部屋数は6部屋(4.5畳が46畳が1部屋、8畳が1部屋)で小部屋が多いです。人気の部屋は2階の富士山が見える部屋です。
 大正から昭和初期まで銭湯を営業していましたが、昭和11年に割烹旅館として現在の建物に建て替えられました。県の出張事務所を経て昭和31年頃(約50年前)からユースホステルをはじめました。
創業当時から〝若者の宿〟として賑わっていました。
 今も昭和の時間が留まっている宿。レトロな建物が人々を懐かしい雰囲気で包んでくれます。国際派で昭和レトロの宿としては「本家」といえます。」

                                  下吉田駅から2,937歩
 
           まち歩き 本八合目
             *旧山一酒店

 「歴史を感じさせる看板は昭和30年(50年前)頃のものです。昭和27年に宮下貞明氏が明見地区から越して酒店を開業しました。それ以前はそば屋であったといわれています。
平成13年に二代目宮下縫明氏が亡くなり廃業しました。昔はよく見かけた酒屋さんの大きな看板。
今は時代と共に姿を消し、あまり見かけることもなくなりました。古い看板は今でもまちの移り変わりを静かに見届けています。」

                                  下吉田駅から3,130歩

            まち歩き 八合五勺目
             *絹屋町

 「下吉田地区は織物の栄えた町でした。本町通りの山梨中央銀行から間堀川に架かる郷台橋までの地区を絹屋町と呼んでいます。大正11年(1922年)に郷台橋の東側に富士織物株式会社が設立され、それがきっかけとなり、この町には糸屋や撚糸屋、染色屋がたくさん軒を並べるようになりました。
やがて、ここで織られた織物を目当てに、遠く東京・大阪・名古屋などから絹織物問屋や仲買人が出張してくるようになり、この辺りの家の座敷を間借りして市が開かれました。
 市の最盛期は戦前でしたが、昭和30年代後半も繁盛した。東裏の絹屋町で儲けた商人たちは西裏や月江寺通りにあった歓楽街で様々な娯楽を楽しみました。
 〈絹屋町の市〉
市での取引 絹屋町(中央銀行裏)に、1と6の付く日に市が立った。市と市との間の普段の日のことをイチアイ(市間)と言った。絹屋町、本町2・3丁目を絹に関する商売の町ということで俗に絹屋町といわれています。かつては、本町通りから卿台橋までの間でありました。しかし、終戦後には新屋や仲町西町までも絹屋町というようになりました。

 昭和15年には、紀元2600年を記念して広場に道祖神を祀りました。戦前、この道祖神のところで12月の防火デーの時に、大釜で大麦を炒って砂糖を入れて麦湯をつくり、大勢の人に振る舞ったことがあります。また、広場のところに舞台を作って、子供たちが剣舞を舞ったりしました。このとき明見や上吉田の青年たちが仮装したりして、集まって賑やかでありました。」


                                  下吉田駅から3,403歩
 
            まち歩き 九合目
             *カフェ月光

 「カフェ月光は昭和の味わいに満ちた店。大正時代の建物で、昭和初期に岐阜県から移築したものです。
建物の外壁には、今ではあまり見かけなくなったホーロー看板や、オーナー手作りの装飾品が飾られています。
1階は喫茶と懐かしい家具や雑貨、2階は古い着物や骨董が展示され、販売もしている。古き良き時代の品物に囲まれ、ゆるやかなひとときを過ごせるカフェ。ここの特製カレーは絶品です。
建物は岐阜県の方から70年位前に築30年~40年位の建物を移築して来たと聞いております。部屋数は大きく4部屋に分かれています。
1階は土間と畳、2階は座敷、天井が低く舟底天井で面白い空間です。
古くは、理容院、ミシン屋呉服屋など営んでいたといいます。今はお茶、喫茶のお客様が中心で、作家物、生活骨董、きもの古布リメイク物を扱う店舗です。

 灯りは古風な電灯。夕闇に浮かぶ建物は歴史の風格そのもの。街の人たちの心深く眠っていた「誇り」に火が灯った。
平成17年11月14日夕刊フジで、泉麻人氏のコラムに登場一躍月江寺通りの顔としてデビュー。」

                                  下吉田駅から3,720歩

            まち歩き 頂上
             *中村会館


 
 「富士と昭和を楽しむ下吉田まちめぐり」の終点です。たいへんお疲れ様でした。富士に見立てた3776歩制覇しました。
このエリア周辺は地場産業の織物業が最盛期の昭和時代「ガチャ万」といわれた時代の遺産が所々残っています。十分お楽しみください。
最近では、平成18年公開されたウッチャンナンチャンのウッチャン(内村光良氏)監督の映画「ピーナッツ」のロケ地(富士沢キラキラ通り商店街で登場)として有名です。
  (プチ情報) 
 中村会館は、平成4年9月12日に竣工しました。北冨士演習場周辺学習等供用施設(中村コミュニティ供用施設)として、地域コミュニティの中核の場として現在活用されています。
敷地面積は580.26㎡。建物の延床面積351.49㎡、1階は集会場、2階は和室、会議室があります。
 地域住民の憩いの場であり、井戸端会議の拠点として親しまれている。」

 各、合目地点ではガイドが待ち受け、到着するとポイントの説明案内を行った。途中の商店や民家の前にはレトロな写真が飾られお客様も足を止め、暫し眺め立ち止まり、案内役を困らせる場面もあった。
こうした事は日常的に実行してもらえると、好感が持て、訪ねて来た観光客に持て成しを受けている事が伝わる。
また、饒舌な説明も良いが、お年寄りが普段着でしゃべる言葉は、温かく郷愁があり、昭和レトロに見事にマッチしていた。
 頂上の中村会館ではラビットスクーターやホンダS800が飾られていたが、お客様の目を引いたのは昔のマッチを下吉田の地図上に貼り付けたボードに足を止め、懐かしそうに見入っていた。

 今回各ポイントに案内板を設置したので興味のある方は、下吉田駅でマップをもらい一合目から頂上目指し街を観ながら散策されては如何だろうか。
また、案内板にはQRコードが付いているので、携帯電話を使い情報を取り込んで見て欲しい、そこには案内板に書ききれない情報があり、知らなかった富士吉田と出逢う事が出来るかもしれない。

 「お疲れ様でした!」参加者は土産のミニ金剛杖と絵葉書をもらいアンケートを書き、近くの空き店舗を使った「本町大好きおかみさん会」によるうどん屋さんで、おにぎり、うどん、そして、おかみさん達の「本町を元気にしたい!」という想いが、深くしみ込んだ美味しいおでんを頂き帰路についた。

        本町大好きおかみさん会・うどん屋さん

             写真提供  富士吉田市富士山課
                                      本町大好きおかみさん会

                                      下吉田地区ロケ映画
                                         ピーナッツ
                                         力道山
                                   
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投稿者 pinetree : 2007年09月18日 13:04