北口本宮 冨士浅間神社 | ||
御 祭 神 木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと) 夫神・天津彦火瓊々杵命(あまつひこほのににぎのみこと) 父神・大山祗神(おおやまずみのかみ) 社伝によれば、110年、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東方遠征の折に、大塚丘より富士山を遥拝し「富士には北側より登拝するのが良い」として、祠と鳥居を建てたのが始まりと云われている。 社殿右後ろにある鳥居から吉田口登山道が富士山頂に向かう起点となっているのは、その為だろうか。 また垂仁天皇の代に、富士山の大噴火を恐れる人々の心を静めるために勅令をもって火山鎮護の神、木花開耶姫を祀ったとする説もある。 延暦7年(788)甲斐守紀豊庭が現在地に社殿を造営した。 永正3年(1506)武田信縄は病気平癒を祈願して参詣を約し、大永2年(1522)には信虎が富士に登山しているが、ここから出発したと思われる。 永禄8年5月、信玄は六女・松姫(後の信松尼)の病気平癒を祈って、娘の参詣・神馬三疋献納などを約束している。 元和元年(1615)、谷村城主鳥居土佐守成次が現在の本殿を建立したが、一時荒廃していた。 享保18年になって、富士講の行者であった村上光清が私財をなげうって拝殿・手水舎・神楽殿・随心門を元文3年(1740)建立再興した。 |
冨士山北口本宮冨士嶽神社境内全図 明治25年12月 |
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国道入口 | ||
参道 | 仁王門礎石 | |
角行の立行石 |
神 楽 殿 | 奉納される神楽は12の舞から構成されている。 |
手 水 舎 | 2キロ程富士山へ登った泉水(泉瑞)から引かれている。 この水には、その昔、将軍源頼朝は天下にその威を示さんと富士山北麓に雄大な巻狩りを行なった。 その際、渇きに苦しむ勢子のため、頼朝は神に祈りつつ大地に杖を突きたてると、澄みきった冷たい水がこんこんと湧き出したと云う謂れがある。 水盤は一個の石をくり貫いて造ったもので、山麓の「石屋の寝床」と呼ばれている場所から切り出した。 柱は石柱を使っており比類稀な建築と云われている。 |
東宮 本殿 | 祭神・天津彦火瓊々杵命は、富士権現と呼ばれており、東宮は三殿の中では最も古い建造物で、構造や彫刻などに室町時代の手法をとどめている。 本殿左側にある。1223年(貞応2年)北条義時による創建とされ、永禄4年(1561)、信玄が上杉謙信と 川中島で戦うにあたり、戦勝祈願のため、あらたに本殿として造営したもので、後この地に移された。 |
西宮 本殿 | 祭神・天照大神 1594年(文禄3年) 浅野左右衛門左が建立。室町風建築様式 |
大鳥居 日本武尊の故事に従い建立 高さ17.7メートルあり 朱塗りの4脚鳥居 木造の大きさでは国内第一。 昭和27年再建。 |
北口本宮冨士浅間神社 (手水舎) |
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御神木(天然記念物指定) 太郎杉 |
拝殿前の両脇には「富士太郎杉」「富士夫婦檜」の名を持つ御神木があり、参道には杉、檜の巨木の森が広がる中、大きな石灯籠が並ぶ。 参道の中程に礎石があるが、こちらは仁王門の跡で、明治初年の「神仏分離令」施行の際、門は撤去されたが礎石だけが残り、その面影だけをしのばせている。 その横にあるのは立行石。富士講の開祖・藤原(長谷川)角行が富士を遥拝し酷寒の中裸身にて、この石の上に30日間立つ荒行を行なったと伝えられている。 北口本宮冨士浅間神社から発する吉田口登山道は、関東方面からの登山者にとっての中心的な登山口で、江戸時代には富士講が大流行し、その数、江戸地内では八百八講を数えたと云われている。 上吉田地区に富士講の世話をする御師の宿坊が百件近く立ち並んだこともあるが、これは神社に属さない独自の宗教活動であった。 国の重要文化財としては本殿(1953年3月31日指定)、東宮本殿(1907年8月28日指定)、西宮本殿(1953年3月31日指定)、社宝の長船経家太刀(1923年3月28日指定)が挙げられる。 全国の浅間神社のうちでの有力な神社の一つであり旧社格は県社で、戦後別表神社となった。 |
本殿 | 誓願成就を絵馬に・・・ | |
梁から見おろす天狗 | 本殿内部 | |
本殿左側の庭 (奥 東宮本殿) |
東宮本殿 明治40年 国指定重要文化財 1561年 武田信玄が川中島合戦の 勝利を祈念して再建した |
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御神木(天然記念物指定) 富士夫婦桧 |
富士恵比寿 富士山に向かって 収められており 左甚五郎作といわれている 招福長命殖産の神恵を 授けるとして敬仰されている |
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西宮本殿 昭和28年 国指定重要文化財 1594年 浅野左右衛門左が 造営した。 |
えびす社(本殿の裏側) | |
諏訪神社 右に大神輿 左に御影(お山さん)が 奉安してある。 | ||
'01/07/02 |