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2008年04月07日
聖徳山 福源寺
福源寺・地図 鐘楼 太子堂
本堂
勝十郎氏は母方の先祖だ。
鶴 塚 吉田歌舞伎恩人碑
聖徳山 福 源 寺
所 在 地 下吉田5780 Tel 0555-23-7733
宗 地 浄土真宗本願寺派
本 地 西本願寺
本 尊 阿弥陀如来
寺 宝 等 聖徳太子画像・親鸞聖人筆・蓮如上人筆・実如上人筆・御文章3通
堂字状況 本堂 鎌倉時代 創建、庫裏、桜門、裏門、太子堂(市指定文化財)
太子堂 昭和41年11月1日
享保9年(1724年)建造で「六角寄棟造」屋根は胴段葺き、回廊下付きで
擬宝珠が高欄に付いている。法隆寺の夢殿を思わせるような優雅な美しい
建物で、内には聖徳太子の自筆といわれる太子16歳の肖像画と、太子の
木造が納められている。
当時、京都本願寺の法王が「太子の画像があるなら、それを納める
お堂があるはず」と言ったことから、本山の使者が検分の為、京都から
早馬で駆けてくる間に、近在の棟梁を集め三日三晩で立てたいう伝説が
伝わっています。
*庭内鶴塚の由来
始皇帝が蓬莱の国日本へ、徐福を遣わして不老不死の薬を探させたが、徐福はその途中で
不死山(富士山)にて他界してしまった。そして3羽の鶴となって舞いあがったが
うち一羽が死んでここ福源寺に落ちて、それを葬った塚が鶴塚と伝えられています。
鶴に化した徐福は、富士山麓の村民を守ったので、土民達は後を慕い、地名を都留郡
(つるごおり)と名付けたのだそうです。
*碑文概要
峽州に鶴郡あり。その地、南は富岳の麓に接す。相伝う、孝霊帝の時、秦の徐福、結伴して
薬を東海の神山に求む。ここに至るにおよび、おもえらく福壌なりと。遂に留まり手去らず。
後に鶴三羽ありて居る。つねに遊びて郡中に止まる。時人以て徐福の等の化すところとなす。
孝霊より元禄に至る凡そ二千有余年にして一鶴死す。その骨を郡の福源寺に埋めそめ鶴塚と称す。
http://suzuki-t.hp.infoseek.co.jp/jofuku.htmから引用
平成21年9月13日、第4回 富士と昭和とうどんを楽しむ下吉田まち歩きが行われ
その中でコースの一つ、福源寺・鶴塚の説明を田辺院代がして下さった。
徐福の生きた弥生時代前期と鶴塚の建立された江戸時代との間が、あまりにも時が
離れており合点いかなかったが、その有耶無耶が晴れた。院代の説明に寄ると鶴塚は、生類
哀れみの令が出された将軍綱吉の時代、禁制の鶴が寺の境内で死んだ。その下手人を村人から
出さない為に徐福伝説を上手に利用し、村人が考えだした方策・知恵だと教えて下さったが、得心
出来る説明に思わず膝を打ち、先祖の叡智に感動さえ覚えた。
投稿者 pinetree : 2008年04月07日 10:41