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2006年10月14日

吉田口登山道

 平成18年10月13日

 平成8年に文化庁から、日本「歴史の道」百選に富士吉田口登山道が選ばれた事を
不勉強で、つい最近まで知りませんでした。HP上で富士吉田市の観光スポットに光りを
当てた時、上位にランクインしなければならないのは勿論、歴史的な意味合いに置いても
富士吉田口登山道を外す訳にはいかないのだ。 
 しかしながら残念な事に、解り易く、見易く、反復出来るネット上で、富士吉田口登山道を
詳しく記述したページを見つける事が出来なかった。情けない事に当市のHPもしかりだ。
それでは作ってしまえと云う訳である。

 これからは中高年の時代。体力・健康に人一倍気を使う年代が増え、手軽に出来る山登り・
ハイキング等の人気度は益々上がる事だろう。富士山は日本人だけではなく世界中の
人々が憧れる山だ、登りたいと云う欲求を持つ人々は間違いなく沢山いらっしゃる事と思う。
その中で、体力が無いから・・・健康に不安だから・・・・と、おっしゃる方々も多数おられる
事だろう。そんな時、テレビ番組でスイスの山々を下るトレッキングを見て思いついた。
富士吉田口登山道も登る事だけに誇示するのではなく、下っても良いのではないかと
思い経ち今回、河口湖駅からスバルラインをバスに乗り五合目まで上がり、徒歩で写真を
撮りながら吉田口登山道を下って来た。

  --- 地 図 ---
   
 
  ー 小御岳社 ー

  ー 経ケ岳・日蓮上人百日行場 ー


  ー 星観荘・佐藤小屋 ー


 このあたりは森林帯と火山礫帯の境界付近であることから「天地の境」ともいいます。
天地界館はそれにちなんでつけられた小屋です。この天地界館は、昭和30年に七合目に
移転し、現在の七合目トモエ館となっています。(歴史博物館HPから)

  ー 四合目 ー


  ー 御座石 ー

 左手に立つ岸壁が御座石である。一般的に、神の依り付く石を御座石と呼ぶ。
かつては、この上に御座石浅間の祠が祀られていた。ここはすでに戦国時代に御座石と
呼ばれており、「女性禅定の追立」の場とされていた。江戸時代になると、二合目以上は
女人禁制であったが、御縁年(60年に一度廻ってくる庚申の年)に限って、女性はここまで
登ることが許された。この石は、古い時代における女人禁制の場を象徴するものであった。
 (説明看板より)

  ー 開運大黒天 ー 

 四合目には茶屋(山小屋)が一軒ありました。この茶屋は、屋内に古くから
大黒天像(開運大黒天)を祀っていたことから、大黒室あるいは大黒小屋と
呼ばれていました。開運大黒天は、福の神として、富士講の人々に信仰されており
この茶屋では、木版で神に刷った大黒天像を登山者に授けていました。これを
受けたものは、掛軸に仕立て、礼拝の対象としました。この場所は、江戸時代には
三合五勺ともいわれていました。(説明看板より)
  

  ー 三合目 ー


  ー 三軒茶屋(中食堂) ー

 ここには江戸時代から茶屋(山小屋)が二軒ありましたが、古くから三軒茶屋と
呼ばれていました。ここからの見晴らしが良かったので、多くの登山者がここで
休憩しました。富士登山の行程では、早朝に麓の上吉田を発ち、ここで昼食を
とることが多かったので、後には中食堂(ちゅうじきどう)とも呼ばれています。
 茶屋の傍らには、道丁・秋葉・飯綱の三神を祀った三社宮と称する社があり
富士講の人々に信仰されていました。現在は、石碑が残されています。(説明看板より)


  ー 二合目・小室浅間神社 ー

 富士山の神である浅間明神(木花開耶姫命)を祀った神社で、富士山中で最初に
建設された神社であるという。古くは、北室・室ノ宮とも呼ばれていた。河口湖の
南岸にある勝山村の里宮御室浅間神社の山宮にあたる。また、ここの御室浅間を
「上の浅間」というのに対して、上吉田の北口浅間神社を「下の浅間」と称した。
本殿は、現在、麓の勝山村に下されている。江戸時代まで、ここから先は女人禁制であった。
(説明看板より)


  ー 女人天上 ー
 細尾野林道を南に歩いて行くと 「富士山遥拝所 女人天上」 があり、掟でそれ以上
登る事が出来ない女性達は、そこから富士山頂を遥拝した。

  ー 大日如来社(鈴原神社) ー

  鈴原社は、記録の上では既に戦国時代にその存在が知られています。
古くは大日堂、大日社、大日如来社、鈴原大日などと呼ばれ、本尊には
密教の最高仏の大日如来を祀っていました。富士山の神である浅間明神は
仏でいうと大日如来にあたる事を、登山する人々にまず知らしめるために
吉田口登山道の最初の社であるここに安置したのだとされています。
大日如来社が建つこの場所が一合目とされたのはそのためでした。(説明看板より)


  ー 禊 所 ー  

 古来よりここから先は、富士山の聖域とされていました。これより先へ向かう道者
(信仰のために登山をする人々)は、大正期頃よりここでお祓いを受け、身を清めてから
山頂を目指しました。そのため、この場所は、「オハライサン(お祓いさん)」とも呼ばれて
いました。明治頃までは、鳥居から一合目まで、直線的な登山道が通じていましたが
登山道を迂回させる新たな道ができた後、旧道跡にこの禊所が建てられていました。(説明看板より)




  ー 馬返し ー

 ここから先は道が険しくなって馬を引くことができず、ここで馬を返したことから「馬返」の
名がつきました。馬を降りた人々は、ここの茶屋で休憩し、道中の身支度を調えました。
鳥居の下では正座し、富士山頂を拝んでいたようです。富士山は、麓から頂上までの間が
三区分され、それぞれ草山・木山・焼山と呼ばれていましたが、馬返は草山と木山の境に
あたり、富士山の信仰領域の基点となる場所でした。 (説明看板より)

  ー 大石茶屋  ・  つつじケ原  ー

  ー 中の茶屋 ー

   ー 泉水(泉瑞) ー

 舗装路から800メートル程、斜めに入って行くとある。この水には、その昔、将軍源頼朝は天下にその威を
示さんと富士山北麓に雄大な巻狩りを行なった。その際、渇きに苦しむ勢子のため頼朝は神に祈りつつ
大地に杖を突きたてると、澄みきった冷たい水がこんこんと湧き出したと云う謂れがある。

  ー 大塚丘 ー

 日本武尊が東征のおり、箱根足柄より甲斐酒折宮に向かう途中、当地大塚丘に立ち、富士山を
遥拝し「大鳥居を建て、富士の神山は北方より登り拝めよ」と語り、祠を建てて祭ったのが浅間神社の
始まりとされている。

   ー 北口本宮冨士浅間神社 境内 ー


 西宮の右脇、鳥居下石塔に「冨士北口登山本道」とあり、こちらが富士吉田口登山道の出発点だ。
 
   北口本宮冨士浅間神社

 拝殿前の両脇には「富士太郎杉」「富士夫婦檜」の名を持つ御神木があり
参道には杉、檜の巨木の森が広がる中、大きな石灯籠が並ぶ。参道の中程に
礎石があるが、こちらは仁王門の跡で明治初年の「神仏分離令」施行の際
門は撤去されたが礎石だけが残り、その面影だけをしのばせている。
その横にあるのは立行石。富士講の開祖・藤原(長谷川)角行が富士を遥拝し
酷寒の中裸身にて、この石の上に30日間立つ荒行を行なったと伝えられている。

  富士宮 人穴神社 (追記・'09,2,12)
藤原角行を語る時、この人穴神社を置いては話にならない。昨年、通り掛かり訪ねたが
神社が分からずに帰って来た。偶々、昨日出掛ける機会があり、初めて人穴神社をお参り
する事が出来た。   =地 図=
 この神社は、藤原角行・食行身禄や、弟子達の墓があり富士講の聖地、即ち
極楽浄土なのだ。


 富士講の祖といわれる長谷川(藤原)角行は、永禄元年(1558)に人穴にやってきて
四寸角の上に爪先立って千日間の修行をし仙元大日神のお告げを受けたといわれる行者です。
角行は、その後も人穴に籠もって修行を続け、各地を回っては仙元大日神の教えを人々に説き
正保3年(1646)に人穴で入寂したといわれています。
 角行後継の行者も、人穴で修行したといわれていますが、その多くは江戸を中心に活動し
富士講は江戸を中心に発展しました。しかし、富士講の人々にとっては、人穴は講祖角行の
修行の地であり、角行が入寂した聖地でした。富士講信者は、富士参詣(登山)をすませると
聖地人穴参詣にやって来ました。人穴御法家といわれた赤池家には、明治19年の一夏に
170人ほどが宿泊したという記録が残されています。
 また、角行が入寂した人穴は富士講の人々にとっては浄土であり、御身抜(富士講の
曼陀羅)に「極楽地獄此穴ニ有浄土門人穴」「人穴浄土門仏生」と書き残されています。
富士講の人々は、人穴浄土に墓を建てたいと願い、講仲間の協力を得て碑塔を建てました。
それが現在も人穴周辺に見られる200基にも及ぶ碑塔群です。
 碑塔(供養塔)は講毎に群を成した所があり、講の勢力を誇っているようにも見受けられます。
また、角行を祀る碑塔・角行二百年忌の宝篋印塔や富士山に何回も登ったという登拝記念の
碑などもあります。
                               富士宮市HPから引用
  食行身禄
寛文10年(1670)伊勢国(三重県)一志郡に誕生まれた食行身禄は俗名を伊藤伊兵衛という。
身禄の名は、釈迦が末法の世を救う未来仏と予言した「弥勒信仰」に由来。13歳で江戸に入り
商人として成功したが、蓄財は悪であると悟り、以後、蓄財を放棄して、油売りの行商で細々
生計をたてながら布教活動に勤しんだ。そのため「乞食弥勒」とも称された。身禄は冨士信仰
には専門的な布教者はいらないと、在家主義を標榜し、「衆生済度」を本願として加持祈穣を
行わなかったともいわれる。
 修験道では、苦行によって滅を軽くするという基本姿勢があるが、食行身禄は他人の病苦を
自らの体で代わって受ける「代受苦」という方法を実践した。その究極の形態が「断食入定」
だった。
 享保18年(1733)、63歳のときに富士山北口7合目の「烏帽子岩」の下で断食行に入り
そのまま入定(死に至る)。それは弥勒の世を到来させるための救世(くぜ)の修行を目的と
したものであった。日本各地でも断食行で入定した行者は多く見られるが、身禄の断食行は
自然体であり、それは富士山自然界とも同居するものであった。断食行中、身禄は弟子に
口述で言行録『三十一日の巻』を残している。また江戸中に富士山がかたどられ、後世に
おいては江戸浅草浅草寺にも造立された。
 富士行者の存在が世間一般に知られるようになるのは、この身禄の存在があって以後の
ことである。それまで冨士講は在野の一組織だったのである。

                             富士山著述古資料さんのページから引用

 浅間神社には子供の頃から何十回行った事だろう・・・だが、恥ずかしい事に
先月まで、仁王門礎石と角行の立行石が、参道中程にある事を知らなかった。
5?才の私が知らないくらいだから、恐らく富士吉田市民の9割以上の方が
知らない事だろう。と云うのは、市民が参拝に訪れる場合は車に乗り、200
メートルの参道をショートカットして大鳥居近くの駐車場まで行ってしまうからだ。

 明治初年の「神仏分離令」(神仏習合の慣習を禁止し、神と仏神社と寺院とを
はっきり区別させること)や、富士講(富士山を神とする信仰で、それ自体は
既存の宗教勢力に属さない単独の勢力)の開祖藤原(長谷川)角行の
偉業を忘れてはいけないし、もっと勉強しなくては、不毛の大地を切り開いて来た
ご先祖様に笑われてしまう。身近な地元の歴史を知る事は、強く生きて行く為の
糧になり、誇りになり、自信になる。その為にも、まずは普段の乗車習慣を
チョットお休みし、スローに歩いてみたら色んな発見があるのではないだろうか。

 平成21年3月に、あのミシュランに選ばれ北口本宮冨士浅間神社が二つ星になった。
富士山は3つ星だ。二つ合わせて五つ星、たくさんのインバウンドのお客様が訪れ賑わう
富士北麓にしたい。
   

投稿者 pinetree : 2006年10月14日 21:57