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2006年09月22日

冨士山下宮 小室浅間神社”流鏑馬祭り”

 九月十九日に斎行されるこの祭りは嘗(かつ)ては富士山二合目鎮座の小室浅間神社の近く馬留ヶ馬場で行われており、勝山村(現富士河口湖町勝山)と共同で奉仕していたが、その都度村間の争いが激しく度重なる流血騒ぎに迄発展することから、享禄三年(皇紀二一九〇年・西暦一五三〇年)武田家家臣板垣信賢の達により各自の村で行われるようになった。その後再三に渡り馬場の変遷があったが、現在の馬場は明治初年からと伝えられる。以来現在に至るも、古の時代そのままに、朝夕役馬、山王祭の騎者等の古式が伝わっている。
 
 この流鏑馬祭りは市無形民族文化財に指定されており、一般に知られている武士の流鏑馬や、他神社等に奉納されるものと異なり、装束は、この地方に見られる一般庶民の出で立ちであり、武家が行う流鏑馬の華麗な装束と比べ地味で質素なものである。。九月一日に斎行される初馬揃式から始まり、九日 中馬揃式(御九日)、十三日から奉仕者は一週間に及ぶ「切火」と呼ばれる厳しい潔斎を行う。女性を遠ざけ、世間日常を離れ祭祀者としての資格を完成し、心身を清浄にするため籠もる。以前は馬主の自宅で行われており、家に注連縄を張り、一族知己の中から奉仕者を選び、馬のない者は早くから奉仕馬に適した雄馬を見つけるなど、並々ならぬ準備への配慮が要求されたが、現在は境内の潔斎館にて撤下品の神札付飾り鞭奉製等祭りの準備をしつつ潔斎が行われている事に、その意義と特色がある。十八日 山王祭・宵祭り、十九日 流鏑馬祭を迎える。馬の駆け方も細かく作法が決まっており、役馬の馳せた足跡による吉凶の「馬蹄占」は世襲の「占人」の存在と共に全国に数ある流鏑馬の中で、特筆すべきこの神事を著名なものにしており、日本の文化的源流を持つ貴重な祭だ。
 やぶさめ祭りが終わると、馬蹄占いの結果が占人から宮司に報告される。氏子区域各町内それぞれに神職を招き、流鏑馬祭りでの「馬蹄占」の結果を元に「お日待ち・秋葉講」と呼ばれる祭儀を行う。町内各家庭は御祈願の後、一枚小さな紙垂を戴き、これからの一年間町内に火事や争い事などの災いが無く無事に過ごせるよう祈願する行事が十一月初旬頃まで続く。(御日待ちとは=燃える火の事ではなく次の朝日、つまり夜を明かし神様に祈り、各班毎に「近所隣り同志で」様々な話をしながら朝日を待つ事です)まさに「村の祭り」古き良き「日本の村組織」を今に伝える貴重なお祭りで、祭りを支える祭典実行委員会の皆さんには頭がさがる思いだ。

  筒粥祭

正月十四日宵から十五日暁にかけて行われる筒粥祭は、筒粥による占事祭儀で、年間の五穀豊凶、天候、養蚕、道者(富士山登山者)の状況が予見される。特に道者(富士山登山者)の予見は、当神社が古くから冨士北麓の富士山信仰の中心「富士山に登る北口登山道一円(沿線)の総鎮守の社」であった事が伺われる。代々世襲の家系による「占人」奉仕者が一族を引き連れての奉仕は、他に例を見ないといわれている。
 遠く、室町時代以前の頃から神領百姓制をとり、宮座(芝座)、神殿の前に座し御神酒を頂く芝座衆が、各祭りを催行する形を現在も踏襲している神社は市無形文化財だけではなく、県・国の無形文化財として推挙されても良いのではないかと思わずにいられない。


    溶岩流末       昭和25年9月19日 御更衣祭 

 祭神”木花開耶姫命”  流鏑馬 の馬蹄で占う神事、筒粥神事、境内の桂の木、60年に
一度行う御更衣の儀式がある(上・写真)。 また、神社の裏手には溶岩の流末の様子を観る事が出来る。
この場所に小室浅間神社を置いたのは富士山の安泰・鎮火を願う古人の願いの表れだろう。


                 冨士山下宮 小室浅間神社 HP より
                 富士吉田市歴史民俗博物館学芸員 堀内 真氏
                  「下吉田の町と祭礼」 参考

投稿者 pinetree : 2006年09月22日 21:53