2006年07月20日
岡田紅葉先生
河口湖・産屋ヶ崎 へ行って来ました。
産屋ヶ崎に”岡田紅葉先生”の碑がある。
富士北麓の文人たち-内藤成雄氏作-より
富土こそわがいのち
厳然、孤高、秀麗、古来より限りなく歌われ、描かれ、写され、日本人すべての
心に誇りと望みと励ましを与えてくれる富士山。とりわけ富士山ろくに住む者にとっては
富士 は四季を通じて肌で感ずる母なる存在だ。その富士を地元民以上に愛し、肌に
とりつつみ、長い写真家の生涯の大半を富士を撮り続けた偉大なる男、岡田紅陽。
その名は死後十年以上たった今も、「紅陽の富士」として尊仰を集め、余人の追随を
許さないカリスマ的評価を保ち続けている。生涯に紅陽の撮った富士の写真は十万枚
をも超すといわ、人の追求するその極限の努力と執念が、愛や宗教的な昇華とさえ
たたえられる数々の名作品を生んだ。
略
産屋ヶ崎の紅陽碑
昭和十五年「富士写真協会」第二回の撮影会が河ロ湖をテーマに富士レ-クホテルで
開かれた。その席で紅陽はこう発言した。「富土山の中央部から爆発した小さい熔岩で
自分のお墓を造っておきたい」。皆が吃驚したが、この波紋の広がりが、今、河口湖畔
産屋ヶ崎に建つ紅陽顕彰碑の動機のようだ。
「俺が死んだら富土の見える所へ、路傍の石を積んで埋めてくれ何処でもかまわな
い・・・・・が岡田のロ癖でした」と妻智恵子は言う。紅陽はこの計画を瓢箪から駒が
出たなどといっているが、紅陽を尊仰する者達の間にこの話題と善意の輪は急速に
広がっていつた。しかもその輸は写真仲間だけのものではなかった。 場所もあちこち
検討され、最終的に紅陽が河ロ湖の逆さ富士と桜を主題にした写真を初めて写した。
縁りの地、産屋ヶ崎が選ばれた。地域は国立公園区内、村から県、国への認可中請も
とんとん拍子、地主の河口浅間神社宮司・伴泰も同意協力、すべてが順調に進だ。
建碑が完成し、除幕式が行われたのは昭和三十一年四月二十九日。その式上で
碑委員長、塩坂連峰から碑の一切の資産目録が紅陽に、紅陽から直ちに地元
観光協会と船村(現・河ロ湖町)に贈られた。
ごの碑(写真参照)は単なる碑ではない。富土に向かう巨岩に埋め込まれ、これを
見る者は湖岸におり立ち、・逆に仰がねばならない。題字は横山大観(頌紅陽)、像製作
朝倉文夫、詩文・徳富蘇峰(好漢紅陽子探奇抜入神乾坤不二岳 面目依君新)、選文
並書・村上元三、建設者芳名板・福沢華雪書という豪華集合碑である。単なる碑では
ないとはその意味である。
略
大岩に埋め込まれたレリーフの紅葉先生の見つめる先には、何時も
富士がある。富士山を撮る方は、一度は訪ねて頂きたいスポットだ。
投稿者 pinetree : 2006年07月20日 14:42